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ぼーーーっとしてたら下記のようなことが
頭によぎってきたので書いておきます。
普通に読むと、頭が変な人みたいですけど、
誰でもいろいろな夢を見るのであしからず(笑)
奇跡は人が起こすもの、そんな風に思えてきたんです。
もし超越的な存在ならば最初からその存在自身が絶対的なのだから
平凡と奇跡との境が無いはず。
奇跡を起こすためには何かと制約を与えられてこそ初めて実現する
んだな、と思えます。限られた寿命、体積、力、与えられた肉体の
なかで何を起こしてくれるだろうか?と楽しみにされているのかもしれない。
強大無比な単一的存在よりも制限はあっても多数の存在は奇跡を
起こしやすいはず。だから僕たちが存在しているのかな。
神話の世界では、人間は神が貸してくれた力を乱用し、自分たちの
力だと思い込んで、知性のある適切な使用をしないため、自らが
その力のなかに滅んでいく姿が描かれることがしばしば。
そんなときに、神の怒りをかって人は滅ぼされると戒められているようです。
人が神に仕えるのか、神が人に奉仕するのですか?
前者に関しては分かるような気がします。
でも最近興味があるのは後者の可能性についてだったりします。
宗教的なことや哲学的なことはさっぱり分かりませんが、
限られた条件の中で勝つとき負けるとき、何か奇跡が起こる
驚きをサッカーの試合からでも何でも起こすことができたら
光輝溢れる人間自身の存在の証をこの世界に留めることができるように
思えるのです。
手段と目的を取り違えて、人は自らを蔑んで奴隷になっては
いけません。奴隷になることは奉仕とは別です。
お金は手段で目的ではありません。人が人に奉仕することは
神が人に奉仕することを少しでも理解しようとする営みなのです。
大騒ぎになるから神は人の世界に潜伏できません。
だから人を通して人々の世界を観察し、報告されるのです。
人は神の存在に愛しみをもって祈ったりコミュニケーションを
とろうとすることは不遜な態度ではなく、双方が持つ長所の
交流なのですから、日々の出来事を心の中でつぶやきましょう。
というところで目が覚めました。うたた寝してました^^
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